さよなら共依存

自己愛と家族についての呪詛のような記録

寂しさはどこから来るのか

今日は、生きていることがあまりにもつらくて、泣きながら帰った。
 
去年の夏のおわりくらいから、自分に対して虚勢を張ったり、自己暗示でなんとかしようとするのを止めている、ような気がする。きっかけだけははっきりしていて、母に対して、ようやくめちゃくちゃ辛かった時期(10代後半からいままで)の本音をすこしずつ言うことができるようになったことだ。
 
そのせいなのか、季節の変わり目には、体調以上に心の調子を、数週間にわたってめちゃくちゃに崩していて、いまもその真っ最中だ。このあいだまで10度とかだったのにいきなり連日真夏日だなんて気が狂ってるし、実際気が狂った。
でもきっと「気が狂った」というよりかは、体調が崩れることによって、ふだんテンションだけで乗り切って目を背けている部分から目を背けることができなくなっている状況なんじゃないかな、と自分では思っている。
だから、go madってより、自分の持つ狂気をまざまざと見せつけられるような、そんなイメージ。
 
そんなこんなで去年の秋から季節の変わり目ごとにめちゃくちゃ心の調子が悪くて、線路を見たら飛び込みたいなと思うし、生きるのつらいし、産まれたくなかった、って感情にあたまが支配されてもうなんにも考えられなくなる。
いまはそれにくわえて、これまで自分のまわりにいた大人たちの無責任さに絶望してるところ。
「この人はなにがあってもぜったい自分を守ってくれる」って信じられる大人がいたことがなかったのって、ぜったい人格形成に悪影響及ぼしまくってるよなあ。
味方だと思える人が身近にいなかったから、10代半ばくらいまでひたすら本ばかり読んでいたし、人の言葉は信じられなかったけれど、小説に描かれた感情の流れや、そのすえに行き着いた結論は信じることができた。
大学に入るまで、疑心暗鬼でだれの言葉も信じられない子どもだったけれど、本だけは私の味方だった。だからいまもこれほど文字に依存しているのかな。
 
そのせいなのか、私はずっと「寂しい」っていう感情が自分に欠けていると思っていて。
自分ではずっと、独立志向が強すぎるせいだと思っていたのだけれど。たとえば「一人暮らしだと寂しいでしょ」なんて耳にタコができるほど尋ねられてきたけれど、一人暮らしそのものが寂しいだなんて思ったことは一度もないし、むしろなんて自由で生きやすいんだろうと思っている。
 
でも、いま、ものすごく寂しい。
寂しい、と感じられるようになった原因について思い巡らせたけれど、結局よく分からなくて。
そこで、思った。じつはこれまでの24年間、ずっと寂しいって感情を押し殺してきたからなんじゃないかって。
専門家でもなんでもないから、そもそも人は寂しいという感情を持って生まれてくるものなのかは知らないし、個人的には「孤児の寂しさ」みたいなものは、「持つ者」が勝手に感情を投影しているだけにすぎないのだと思ってきた。だって、彼らにとっては親はいないのが当たり前なのだから。
あんまり結論を急ぎ過ぎるのはよくないから、このへんで筆を止めようと思う。
しばらくはこの「寂しさ」がどこから来たか、そもそもいま生まれたものなのか、じつはずっとあったものなのか考えることが課題だなあと思っている。

ぜったい喪主になんてなってやらない

まだ四捨五入したらギリ20歳なのに早くない?なんて世間では言われそうですが、今回はこのままいくと未来に控えているであろう親の葬式の話です。

 

これまで何度か書いている記事を見ていただければおわかりのように、私にはいちおう戸籍上父親はいますし、大学進学を機に実家を出るまでは、おなじ家で生活していたはずなんですが、かれこれ10年会話してません。

しかも、おなじ家に 住んでいるのに会話しない、というと、たいてい想像されるのは「お父さんが話しかけても無視する反抗期の娘」みたいなものだと思いますし、これまで他人に話すとそうだと思われて、うがーっと地団駄踏んだりしたものですが、違うんです。

父親はべつに夜勤の仕事とかでもなく、私もちょっと引きこもったりはしたけどふつうに学校に通い、勉強と部活に励む中高生だったのですが、そんなふうに私はごく自然に生活していても、家のなかですれ違うことすらありませんでした。

なぜなら、父親は平日だけでなく土日も終電で帰ってきて、朝は私が家を出るよりも遅い時間に起きるからです。

くわえて、ちいさいころから母に父親の愚痴を散々聞かされ、自発的に「離婚したらママについていくね♡」と言っていた幼女だった私は、だいぶモノが分かる年齢になってくると、ますます父への憎しみを募らせていきました。

社会人1年目のころに「父親の愚痴を聞かせること」がいまの私にどう繋がっているのかやっと分かって、一度絶縁を経て、なんやかんやあって私は母とは親子関係をやり直して、いますごくいい状態にあります。ですが、それを経ても、父への憎悪が変わることはありませんでした。

 

そしていよいよ本題の葬式の話をします。

私は長女なので、いまのままだと両親のうち後に残ったほうの喪主をしないといけないことになります。

あれを父親だと思ったことは一生のうち一度もないのに、「父親ヅラなんてされたらたまったもんじゃないからぜったいに結婚しないし結婚式したくない」なんて思っている私ですが、「結婚式よりも葬式のほうが避けられない事態じゃん……」ということに大学4年くらいのときに気付きました。

これはまずい。だってせめて火葬くらいはしないと犯罪ですし、そのまえに介護の問題だってあります。

戸籍上の父親であり続けていることだけでこんなに殺意が湧くのに、介護したり最期を看取る責任を負わなきゃいけないのかと思うと発狂しそうです。

 

「これはいまのうちに両親に離婚してもらうしかない」

 

メラメラとそんな思いを燃やしはじめました。

とはいえ離婚してほしかったのなんて20年くらいまえからですし、大学受験まえに推してるバンドの解散で絶望の底にいたとき「ぜったい大金持ちになってアレに札束投げつけて『これで離婚しろ』って言って、離婚させるんだからな」っていう憎しみだけで受験を乗り越えた人間なので、今更っちゃ今更なのですが。

来年、唯一の妹が社会人になるはずなので、切り出すとしたらそのタイミングかな、と思っています。

大学受験前夜に思い描いていたような、大金持ちにはなれてないし、投げつける札束もないけど、思ったら取り逃がさないうちに即行動がモットーなので、こわいけど、がんばって切り出そう。

それに、母と絶縁したときの身内がひとりもいなくなってほんとうにひとりぼっちになる恐怖にくらべれば、なんてことないですし。

ときめかない運命

少年アヤちゃんのトークイベントに行ってきた。

アヤちゃんのことを知ったのは焦心日記の連載の終盤あたり。アイドルに狂ったり、なにかに夢中になって全身投げ打っていくかんじが見ていて面白かったし、共感する部分もたくさんあって、アヤちゃんの突き進む様子を読んでいると一緒に戦っているような感じをおぼえて、とても好きになった。

でも、焦心日記のさいごでお父さんの話が出てきたあたりから、見方がさらに変わって。ただ好きなものに夢中になっている様子に共感していただけじゃなくって、もっと核の部分、業みたいなものに共感しているんだ、ということを知って。

焦心日記は「これからリスタート」みたいな終わり方だったので、アヤちゃんの次作をすごく楽しみにしていて。

今日が発売日だったのでまだ読めてないんですが、きっとまた救われるんだろうなあというたしかな予感だけはある。

トークショーで、対談相手の文月さんが「実際の運命はときめきみたいなものはない」っておっしゃってたことに、すごくハッとさせられて。

私はセーラームーンとかCLAMP作品を見ながら育った子どもだし、いまでもウテナ幾原邦彦監督のことは崇拝してるし、運命CP(前々前世からとかいろんな理由であらかじめ結ばれるものとして定められた運命的なカップリング)に弱い腐女子なので、「運命」って言葉が大好きで。

でも反面、自分の人生において「運命の恋」なんてものはあったためしがないけど、誰かが書いた小説のなかのできごとなんじゃないかってくらいに、すべての糸が繋がるような、あまりにもよく出来すぎた展開が訪れたときは運命的なものを感じてきて。

でもそれを「運命」って言い切ってしまうことはなぜだか避けていて。だって私の行動は私の意志で決めたことだし、でも自分の意志以上の力みたいなものを感じるし、でもでもそれを認めたくなくて……みたいな想いがずっと燻っていたんだ。

なのに、文月さんのその言葉がスッと入って。理由はまだ分からないけれど、これから模索していこうと思った。

アヤちゃんは「オカマ」、文月さんは「JK詩人」っていう記号と戦った話とか、自分を語るにあたっての照れについての話だとか、めちゃくちゃ分かるし、でも私はまだその域には達せてないなあとか思いながら聴いてました。

行けてよかったなあ。

さいごにおこなわれたサイン会で、私がアヤちゃんの文章を読んでるときの気持ちとか、描かれてるアヤちゃんの人生に共鳴する私の業のこととか話せて、とてもよかった。

どうしたって器用には生きれないし、腹立つことも多いし、無意識の意識みたいなものにはいちいち傷ついてしまうけど、がんばって生きよう。だって希望があるから。

東京から離脱したわけ

 私は高校3年の2月、オープンキャンパスの学科説明会で恋に落ちて以来(学科に恋というのもおかしいけれど、説明を聞いた私が感じたのはときめき以外の何物でもなかったし、あの学科以上に魅力的な学科は日本中探してもないと思っていた)ずーーーっと目標に掲げて、十二分の学力をつけられるよう、わざわざ1ランク上の大学を目指すクラスで勉強までした大学を蹴って、京都の某本格推理小説家の母校であり作品のモデルでもある大学へ進学することに決めた。

 大学に入ってから何十回と「なんで東京にあんな大学いっぱいあるのに京都に来たん?」とか「わざわざ都会からこんな田舎まで来ることないのに」と言われてきた。

 ちなみに後者のばあい、ネイティブ京都人はほんとうに京都のことを田舎だと思っているわけじゃない。たいてい日本でナンバーワンの都市だと誇っているくせに、こんな言い方をしているので、京都人ってほんとに面倒くさいなと思う。

 ともかく、そんな質問を受けるたびに「建物フェチだからあの赤レンガの学舎に頬擦りしたくって〜」とか適当なことを言っていた。

 

 でもほんとうは理由がほかにふたつくらいある。

 

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父の記憶

うちは表面上4人家族だけれど、私は3人家族だと思っている。
家族といって思い浮かべるのは、私、母、妹の3人。そして私が中学のときから飼ってる犬だけだ。
小さい頃の記憶が曖昧だから、事実かどうかは別として、高校を卒業して大学に入り、一人暮らしをはじめてからというものの、思い返す実家の風景は、私1人きり(プラス犬)。もしくは母と妹との3人だった。

けれど、うちは母子家庭なわけではない。
同じ家に父親も住んでいる。ということになっている。
どうしてこんなにまどろっこしい言い方をするのかというと、父とは私が13歳のときから、すでに10年会話を交わしておらず、むしろ会話をする必要がないくらい、空間を共にしていないからだ。
物心ついたころから、父は私が寝たあとに帰宅し、私が学校に行ったあとに出かけていた。
食卓を一緒に囲むことなんて、週に一度あればいいほうで、それも私が大きくなるにつれてなくなった。
だから、小学生のころに、ふつうの家は毎日両親とともに夕飯を食べるらしいと知って、とても驚いた。うちはふつうじゃないんだ、とそのときはじめて自覚したように思う。
寝起きしているのは同じ家だし、どうやら血が繋がっているらしいし、保護者の欄には名前を書かなきゃいけないけれど、電車でたまたま隣にいただけの人とおなじくらい、まったくの他人だった。

そんな父(一応)のことがむかしから憎かった。
家族は私と母と、喧嘩ばかりしていた妹の3人だけで十分だと思っていたし、その3人の輪にいる異端分子が父だと思っていた。
まだ幼稚園児か小学生になりたてのころまで「離婚したらママについていくね」と何度でも言ったし、すぐにでも離婚してほしかった。
母が話す父の悪口には全力で同意した。家事から子育てからすべて、家庭のことにいっさい関わらず、母の負担を増やす父は敵であり、悪だった。

いちばんよく聞いたのは、「夕飯の有無を言ってこないくせに、用意していないと怒る」ということだった。
母は毎日、食べるのかわからない父の分の夕食を用意し、冷蔵庫には手をつけられていない夕飯がどんどん溜まっていた。
それと反比例するように、よく食べる私を見ると母は喜んだ。
食べることは好きだったし、残すことはもったいない。だから食べる。
いま思えば、私が食べるのを好きなことは、父が食べもしない夕飯を用意させつづけたことの影響なのかもしれない。そう思うとヘドが出る。

またあるとき、母が父の上司の呼び出され、「勝手に長時間の残業をするから困っている。奥さんからもなんとか言って欲しい」という話をされたらしい。
学校の面談じゃあるまいし、上司にそこまでさせるなんてと心の底から馬鹿にした。

たしか小学生のころ、めずらしく4人で食卓を囲んだ夕飯時に、私がプリンの蓋を舐めるとか、そのくらいの些細なことで、父が癇癪を起こし、まったく聞き入れようとしない私をダイニングから玄関まで引きずり、叩いた。ということが2度あった。
ひとしきり収まると、母が来て、父を怒り、当の父は正座をして下を向き、聞き入れていた。
私はそれを見て、ざまあみろと思った。
あんなものには私を叱る資格なんてない。
だって父親らしいことなんてひとつもしていないのだから。

そうして父を完全に憎み切るようになり、思春期に入った。
中学に入り、いままで本をいっぱい読むことと勉強ができることだけが自慢だったのに、受験勉強して入った私立の女子校ではこれまでの勉強が通じなかった。
成績はどんどん落ち、私はこれまで掴んでいたキャラクターを失くした。
くわえて、小学校を卒業する前に『西の魔女が死んだ』を読んで、死は怖いものではないと思うと同時に、自分の生きる意味がよく分からなくなった。
私は「何もしない」ことを選んで、中学では誰とも仲良くしようとせず、クラスの輪という名のヒエラルキーにも入ろうとせず、やがて母に無断で学校を休むようになった。
朝、学校に行ったふりをして、母が出かけたころにこっそり家に帰ったり、近所のショッピングモールをお腹を空かせながら彷徨ったりしていた。

そんな私の居場所はインターネットだった。
中学に入った頃に友達に教えてもらった漫画のファンサイトに入り浸り、毎日家の古いパソコンの古いマウスで絵を描いて、個人サイトなんか作ったりして、掲示板で知り合った友達と話したり、ブログに長ったらしい文章を書き連ねたりしていた。
全体がどうかは知らないけれど、当時私が仲良くさせてもらった子たちは、私よりもずっと家庭に問題がある子が多くて、あさましいけれど救われた気分になった。

けれど、次第に母が私の不登校に気づき、その原因がネット依存であるとした。
私は以前よりさらにこそこそと隠れてパソコンに触るようになった。
でも、家のパソコンはリビングにある1台だけだ。
深夜、父が帰ってくると、同じ空間にいたくない私は中断して、自分の部屋に戻るのがお決まりになっていた。

ところがある日、インターネットエクスプローラーのホーム画面に細工がされていた。
最初に開いた時間と、その一時間後くらいの時間を表示して、触っていいのはこの時間までだと書かれていた。
パソコンに関してまったくの無知で、みずから関わろうともしない母はこんなことするわけがない。
犯人はSEをしているらしい父に決まっている。
激しい怒りと憎しみが沸いた。
母に迷惑を掛けつづけ、父親らしいことなんて何一つしていないアイツが、私に教育できる権利があると思っているなんて、つけ上がっている。許せない。
私はすぐにホーム画面をヤフーに戻し、何事もなかったかのようにインターネットを続けた。

それから、私は父と言葉を交わしたことは一度もない。

そのパソコン事件とどちらが先だったか忘れたが、父が妹の名前を間違えたことがあった。
父が帰ってくるのはきまって終電なので、母は何か要件があるときは、テーブルにメモを残しておくのだが、そのメモへの返信として父が書いたコメントに妹の名前が1字間違って書かれていた。
それを見て「やっぱりアレは父親なんかじゃないな」と思ったのだ。

はじめに

2015年は私にとって激動の年でした。
7月から10月まで、悪い意味でも良い意味でもドラマチックな出来事があったのです。
ひとことで言うと、親にこれまでの鬱憤をぶちまけて絶縁し、祖母が亡くなり、もう実家に帰ることは二度とないのだろうと思っていました。

ところが、私は大学時代から住んでいた町を引っ越し、先月から実家で生活しています。
毒気が抜けたかのように、ひと月で4kgも太ったくらいには平穏無事な日々を送っています。
いまのところは。

夏頃からいまに至るまでに色々なことを考え、色々なものを読み、色々なことを感じてきたのですが、あるときの決断の後押しをしてくれた本があります。
ライターの小野美由紀さんのエッセイ『傷口から人生。』です。
ヴィレヴァンで愛☆まどんなさんのコーナーにひっそりと置いてあったのを見かけ、タイトルにズガンと一目惚れのような感覚を受け、読んだらあまりにも「私の物語」すぎて涙が止まらなくなりました。
そして私は覚悟を決め、行動に出ました。

ですが、最終的に「実家に戻る」という決断をするときに思ったのです。
近頃いわゆる毒親ブームで、子どもを知らずのうちに支配する親のおかしさが指摘されていますが、そうした体験談を綴るエッセイやコミックはたいてい「親から物理的に離れて終わる」のです。
私は「親から物理的に離れる」ことは大学入学とともに経験し、5年後の現在、問題を(すべてではないにせよ)解決して戻ってきました。
こういった前例はなかなかないのではないでしょうか。

私が小野さんのエッセイを読んで力をもらったように、私のこの文章が誰かの生きる勇気になればいいなと思い、ブログを始めることにしました。
初回記事なのでかっちりと書いてしまいましたが、単純に読み物としても面白いものにしていけたらと思うので、読んでくださると嬉しいです。