読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

さよなら共依存

自己愛と家族についての呪詛のような記録

東京から離脱したわけ

 私は高校3年の2月、オープンキャンパスの学科説明会で恋に落ちて以来(学科に恋というのもおかしいけれど、説明を聞いた私が感じたのはときめき以外の何物でもなかったし、あの学科以上に魅力的な学科は日本中探してもないと思っていた)ずーーーっと目標に掲げて、十二分の学力をつけられるよう、わざわざ1ランク上の大学を目指すクラスで勉強までした大学を蹴って、京都の某本格推理小説家の母校であり作品のモデルでもある大学へ進学することに決めた。

 大学に入ってから何十回と「なんで東京にあんな大学いっぱいあるのに京都に来たん?」とか「わざわざ都会からこんな田舎まで来ることないのに」と言われてきた。

 ちなみに後者のばあい、ネイティブ京都人はほんとうに京都のことを田舎だと思っているわけじゃない。たいてい日本でナンバーワンの都市だと誇っているくせに、こんな言い方をしているので、京都人ってほんとに面倒くさいなと思う。

 ともかく、そんな質問を受けるたびに「建物フェチだからあの赤レンガの学舎に頬擦りしたくって〜」とか適当なことを言っていた。

 

 でもほんとうは理由がほかにふたつくらいある。

 

  ひとつは好きなバンドが解散してしまって、東京にいることにこだわる理由がなくなったから。

 椿屋四重奏というそのバンドは、「艶ロック」なんて自称していて、唯一無二で、かっこよくて、でも危なっかしくて、はじめてライブを見た高校2年の冬から、狂ったように椿屋のことばかり考えていたし、実際狂っていたと思う。

 ちょうどそのころ部活と勉強と両立させるために、毎日3〜4時間睡眠みたいな、売れっ子アイドルかっていう忙しい日々が続いていて。いまだ中二病をこじらせていた私は、自分に生きる価値はないとおもっていたけれど、でもオーケストラ部のなかでは、最高学年だし、メインの曲でソロ吹くし、私がいないと舞台が成り立たないから、生きなきゃなって思っていたし、ここが私の居場所だって思えたはじめての場所だった。でもいちばんのおおきな舞台が秋にあるし、それが終われば実質引退みたいなものだし、そうしたら私を必要とする人はどこにもいなくなるし、何のために生きたらいいのか分からなかった。

 そんなときに椿屋四重奏に出会ってしまったのだ。このバンドをリアルタイムで観れる嬉しさに打ち震えて、嫌なことばっかりだけど、いまこのときに生きていてよかったー!と心の底から思った。

 でも実力のわりには売れてないし、ボーカルの中田さんは武道館行きたいってずっと言ってるし、行ってほしいし、いつでも駆けつけられるように私は東京の大学に進んでバイトとかしたいし、昼ドラのテーマソングにタイアップされたしこれ武道館近いんじゃない?って思ったし、でもそのすぐあとにメンバーの脱退が報じられるし。

 そんな紆余曲折してるけど成長しているところに、私は自分を重ねていた。椿屋ががんばっているかぎりは私もがんばらなきゃって思った。中田さんはおなじB型だし、孤独感とか疎外感を感じてたり、家庭がちょっと複雑そうなところも似てるし。大学入ったらライブいっぱいいけるし、ぜったい武道館も行ってくれるし、そのために受験生のいまはちょっと我慢して勉強しよう。

 

 でも、センター試験のたしか2日前に、突然メルマガが舞い込んだ。タイトルは「椿屋四重奏からの大切なお知らせ」で、年末のカウントダウンライブをもって解散し て い た ことが書かれていた。

 は? 意味わかんない。過去形? 私なんのために勉強してたの?

 一世一代の大失恋ってくらいに声をあげて泣いて、2日間も泣き続けたから、喉は潰れて目は腫れて、鼻は詰まってるし呼吸できなかった。そんな病人より病人みたいな状態で、嫌々ながらセンター会場に行った。雪だし。うちから2時間くらいかかるし。座席はおなじ学校の学年全員をそのまま五十音順にした並びだったけれど、とてもじゃないが人と話す心の余裕なんてないので、全員無視した。

 

 唯一の光だった椿屋が解散した世界でなんて生きたくないから死のうかなあ、とわりと真剣に考えた。ほんとうに絶望したときって、「明日」って概念がなくなるんだなあってそのときに知った。

 でも、いままでの努力をなかったことになんてしたくないし、これで受験落ちたらそのときに死ねばいいし、偉くなって金持ちになって父親に札束投げつけて「金ならやるからさっさと離婚しろ」って言いたいし、とりあえずいま死ぬのはやめようってことにした。無理やり自分を納得させた。私の特技は自己暗示なのだ。

 そんなこんなで何も失うものがない私は鋼の精神を発揮して、たぶんまわりで一番受験が「成功」したと思う。練習台として一応受けたどうでもいい学校は落ちたけど、それなりに行きたかった大学は全部受かった。

 鋼の精神だけど、自暴自棄になってたので、「椿屋のいない東京になんて用はないよ。もともと東京好きじゃないし。それに、京都に行ったほうが後悔が少なくてすむ気がするし」とか言って、あれほどまでに行きたかった第一志望を蹴って、悲しみをまといながら京都に来たのだ。

 

 

 ふたつめは、しがらみをすべて捨てたかったから。ひとつめで語りすぎてしまったけれど、じつはこっちが本題だ。

 高校3年の夏が終わったころ、祖父ではないんだけど、祖父のような人が死んだ。それまで、うちの母方の親戚はよそと違って仲がいいと思っていたけれど、親戚からの電話口で母は、ヒステリックに泣いていた。

 母方の実家は、うちから一駅のところにあって、母はよく様子を見に行っていた。ほかの親戚はみんなちょっと遠めのところに住んでるので、気軽にいけるし、気軽に呼べるのはうちくらいだったのだ。

 実家にはおばあちゃんと、おばあちゃんの姉夫婦が住んでいた。みんな元気だったころはよかったけれど、いくら長寿とはいえ、年を重ねればそれなりに体の不調が出てくる。そんなときに真っ先に頼りにされるのは母で、みなが年を重ねるにつれてその回数も増えてきた。はじめはよかったものの、だんだんと疲れてくる。

 そのとき亡くなったのは姉夫婦の旦那さんのほうで、そのあとすぐに奥さん、つまり私の祖母の姉が、糸が切れたようにひどいアルツハイマーになり、幻覚を見たり、人を責めたりして、どんどんまわりが介護疲れになっていったのだ。

 ワイドショーで見るようなドロドロとした問題と、母方の家系は関係ないと思っていたけれど、そのときになってようやく、まったくの他人事ではないんだなと気づいた。

 さらに、たぶん高校生になったころから祖母に「あんたのお母さんにはもう期待できないから、お父さんと仲良くしてあげて」と言われるようになった。

 父親は私が世界で一番憎んでいる物体なのに。私は嫌だ、とか無理だ、と言いつづけたけれど、しばらくするとまた頼まれた。でも何度言われても無理なものは無理なのだ。  そうした血のしがらみ、そしてもちろん家からも離れた、私という何物でもない一個人として生きたかったのだ。

 だから私は一人暮らしという誘惑に負けて、京都に行った。

 

 

 大学生活についてはまた別の機会に書くつもりだが、とにかく自由で楽しかった。あのときの選択は間違っていなかったと心の底から思っている。

 

 ここまで書いて、合格以前は一人暮らしを断固反対されていたのに、受かってからはあっさりと「いいよ」と母に言われたことを思い出した。だから、記念受験のつもりで一校だけ関西の大学を受けたのである。

 そのことに関しては、もっと早くから言ってくれたらよかったのにという思いが強いけれど、ゴーサインを出してくれたことは感謝してるし、結果オーライかな、という気持ちだ。