さよなら共依存

自己愛と家族についての呪詛のような記録

ときめかない運命

少年アヤちゃんのトークイベントに行ってきた。

アヤちゃんのことを知ったのは焦心日記の連載の終盤あたり。アイドルに狂ったり、なにかに夢中になって全身投げ打っていくかんじが見ていて面白かったし、共感する部分もたくさんあって、アヤちゃんの突き進む様子を読んでいると一緒に戦っているような感じをおぼえて、とても好きになった。

でも、焦心日記のさいごでお父さんの話が出てきたあたりから、見方がさらに変わって。ただ好きなものに夢中になっている様子に共感していただけじゃなくって、もっと核の部分、業みたいなものに共感しているんだ、ということを知って。

焦心日記は「これからリスタート」みたいな終わり方だったので、アヤちゃんの次作をすごく楽しみにしていて。

今日が発売日だったのでまだ読めてないんですが、きっとまた救われるんだろうなあというたしかな予感だけはある。

トークショーで、対談相手の文月さんが「実際の運命はときめきみたいなものはない」っておっしゃってたことに、すごくハッとさせられて。

私はセーラームーンとかCLAMP作品を見ながら育った子どもだし、いまでもウテナ幾原邦彦監督のことは崇拝してるし、運命CP(前々前世からとかいろんな理由であらかじめ結ばれるものとして定められた運命的なカップリング)に弱い腐女子なので、「運命」って言葉が大好きで。

でも反面、自分の人生において「運命の恋」なんてものはあったためしがないけど、誰かが書いた小説のなかのできごとなんじゃないかってくらいに、すべての糸が繋がるような、あまりにもよく出来すぎた展開が訪れたときは運命的なものを感じてきて。

でもそれを「運命」って言い切ってしまうことはなぜだか避けていて。だって私の行動は私の意志で決めたことだし、でも自分の意志以上の力みたいなものを感じるし、でもでもそれを認めたくなくて……みたいな想いがずっと燻っていたんだ。

なのに、文月さんのその言葉がスッと入って。理由はまだ分からないけれど、これから模索していこうと思った。

アヤちゃんは「オカマ」、文月さんは「JK詩人」っていう記号と戦った話とか、自分を語るにあたっての照れについての話だとか、めちゃくちゃ分かるし、でも私はまだその域には達せてないなあとか思いながら聴いてました。

行けてよかったなあ。

さいごにおこなわれたサイン会で、私がアヤちゃんの文章を読んでるときの気持ちとか、描かれてるアヤちゃんの人生に共鳴する私の業のこととか話せて、とてもよかった。

どうしたって器用には生きれないし、腹立つことも多いし、無意識の意識みたいなものにはいちいち傷ついてしまうけど、がんばって生きよう。だって希望があるから。